1907年、北ドイツのハノーバー近郊にある小さな街・アインベックハウゼンで、親戚関係にあった二人の若い木工職人のマイスター、フリードリヒ・ハーネ(Friedrich Hahne)とクリスチャン・ウィルケニング(Chiristian Wilkening)が共同経営の椅子工房 Wilkening & Hahne を開きました。
19世紀後半以降、アインベックハウゼンでは周辺の原生林から採れるブナ材を使用した木材加工が盛んになりました。椅子を作る中小の工房が100社あまりあったことから、「the chair village」というニックネームがついていたほどです。現在はバッドミュンダーという街の一部になっており、ウィルクハーンの本社・工場は今でもこの地にあります。
創業者の一人、フリードリヒ・ハーネ(左)
創業した当初は、猫脚のいわゆるロマネスク様式の木製椅子を作っており、二人の名前にちなんだWIHAという様式名が生まれるほど高い技術を誇りました。ほどなく地域で大きな工房のひとつとなりましたが、まだ家内制手工業の域を出ておらず、工場というよりは、かなり大きな木材処理工房という感じでした。
1930年代頃の椅子
1929年、クリスチャン・ウィルケニングの息子であるアドルフ・ウィルケニング(Adolf Wilkening)が仲間に加わります。彼は生産技術上の問題を解決する卓抜した才能を持った技術者であり、工業化を進めていきました。
1940年代に入り、第2次大戦の後半には40名ほどの従業員のうち若者は軍隊に参加しなければならず、戦争の影響で椅子の需要もなくなっていたため、1943年には工場を閉鎖せざるを得なくなりました。
終戦後の1945年、創業者の一人、フリードリヒ・ハーネの息子であるフリッツ・ハーネ(Fritz Hahne)が故郷に帰ってきました。そして、1947年から経営者として、購買や流通、経理などの管理を一手に引き受け、製造部門の責任者であったアドルフと会社を再出発させました。
フリッツ・ハーネ(右)
終戦後の1945年、創業者の一人、フリードリヒ・ハーネの息子であるフリッツ・ハーネ(Fritz Hahne)が故郷に帰ってきました。そして、1947年から経営者として、購買や流通、経理などの管理を一手に引き受け、製造部門の責任者であったアドルフと会社を再出発させました。
フリッツ・ハーネ(右)
1952年、初めて開催されたケルン家具フェアに、Wilkening & Hahne が小さなブースを出した時、フリッツ・ハーネは、コレクションの家具製作を依頼する会社を探していたドイツ工作協会(DeWe)のヴァルター・ハインと出会います。Wilkening & HahneはDeWeコレクションの家具部門の製造会社に選ばれ、モダンな椅子とテーブルの生産が始まりました。
Wilkening & Hahne にとって、これが新しい世界への第一歩、成長の起爆剤となりました。DeWeコレクションの家具は大変な好評を博し、会社は瞬く間に成長しました。
DeWeコレクション 852
当時の工場の様子
ゲオルグ・レオヴァルト
その後フリッツ・ハーネは、DeWeとのパートナーシップで知己を得た有名デザイナー達と共に、余計な装飾のない新しいスタイル、新たな素材が可能にする造形の実験的なフォルムの椅子を数多く生み出していきます。
これらのデザイナーの中には、バウハウスの理論と実践を継承して設立されたウルム造形大学の教授、ゲオルグ・レオヴァルト(Georg Leowald)やヘルベルト・オーエル(Herbert Ohl)、建築家ローランド・ライナー(Roland Rainer)、バウハウスの最後の学長であるミース・ファン・デル・ローエに学んだヘルベルト・ヒルシュ(Herbert Hirche)などがいました。
次々と生み出されるオリジナル製品のために1954年、Wilkening & Hahneを縮めた「Wilkhahn」というブランドネームが生まれます。
1955年、ゲオルグ・レオヴァルトがウィルクハーンのために最初にデザインした、Chair351はベストセラーとなり、ヨーロッパ初のFRPプラスチックをシェルに用いたChair224は、ウィルクハーンに新しい技術をもたらし、また新しい市場を広げました。1962年に発売されたChair402は、ヴィルヘルム・リッツ(Wilhelm Ritz)がウルム造形大学の卒業制作でデザインした、世界初のサイドフレーム構造とテニスラケットの成形合板技術を椅子に応用したエポックメイキングな椅子でした。
Chair224
Chair402
コーポレート・デザイン・ガイドライン
また、1965年にはウルム造形大学のヴィジュアル・コミュニケーションコースの客員教授で、ルフトハンザ航空のロゴデザインで知られるトマシュ・ゴンダ(Tomas Gonda)らによって、ウィルクハーンのロゴやコーポレートカラー、フォントなどのガイドラインが作成されました。
Chair351の製作風景。
中央はアドルフ・ウィルケニング
1950年代に生産された製品にはバウハウスを起源とするモダニズムが多く発見できますが、ウィルクハーンによって作られた家具もまたその代表格であることは間違いないでしょう。画期的な製品群を発表するのと並行して、若き経営者フリッツ・ハーネのもと、この時期に製品構成や企業イメージ、組織内部の改革が行われ、ウィルクハーン・カルチャーが形成されていきました。
1960年代から巨大なビル建築が盛んになって、オフィス家具需要が拡大してゆくに従い、応接用シリーズ2000 range(Delta Design,1968)、背もたれの傾きを自在に調節できるよう背もたれと座面を分割したChair 232(Wilhelm Ritz,1971)が大成功を収め、以後開発される製品はオフィス向け中心となりました。また、着座時の疲労軽減と健康に資する製品開発のため、徹底したエルゴノミクスの研究を行い、その成果をデザインに取り入れていきます。
また、1972年のミュンヘンオリンピック開催時に開通した地下鉄の駅にBench system 120(Friso Kramer,1970)が採用され、ウェイティングエリアにも参入していきます。
Chair232の広告
地下鉄の駅に設置されたBench system 120
1971年にウルム造形大学出身のデザイナー、クラウス・フランク(Klaus Franck)がウィルクハーンのデザイン部門の責任者に迎えられ、1977年からウィルクハーンのデザイナーに加わっていたヴェルナー・ザウアー(Werner Sauer)とともに、現代的エルゴノミック・オフィスチェアの原点であり以後の世界標準となったFS-Lineを開発しました(1980年)。
FS-Lineは、背もたれと座面が連動して動くオートシンクロ機構を世界で初めて搭載し、座る人が意識しなくても、あらゆる姿勢に対応して「正しく座れる」デザインを実現した革新的な製品で、数々のデザイン賞に輝くとともに記録的な売上をウィルクハーンにもたらしました。
その後もウィルクハーンは、ウルム造形大学の関係者らと開発した数々の製品が評価され、ドイツ近代工業デザインをリードする家具メーカーの地位を確立してゆきました。
FS-Line
1985年、デザイン開発の独自性と競争力を高めるため、デザイン部門を別会社化し、デザイン事務所「ヴィーゲ(wiege )」を発足させます。ヴィーゲはウィルクハーン以外の企業からの依頼も幅広く手がけ、国際的に活動しました。
また、環境問題にいち早く注目したフリッツ・ハーネは、 1990年に『目先の利益の極大化よりも環境保護を優先する』とした環境宣言を行い、環境マネジメントの専門家ルディガー・ルッツ教授らとともに家具メーカーで初めて、独自の包括的エコ・コントロール・システムを構築しました。太陽光発電や屋上緑化などを取り入れた工場棟の建設もその一環でした。
エコロジーへの取り組みはもちろん、製造する製品にも反映されました。ウィルクハーンでは1950年代半ばから既に、ウルム造形大学が掲げていた「デザインの最終目的は、製品寿命を伸ばし、資源の浪費を最小限にすることにある」という原則に即したものづくりを行っていましたが、原料調達・加工、製品開発、生産工程、そして輸送やサービス、建物に至るまで、環境負荷を最小にすることを徹底しました。
1992年に開発されたPictoは、パーツの95%がリサイクル可能で、メンテナンスや素材分別がしやすいよう接着剤を使用せずに組立てられた世界初のチェアでした。先進的かつ模範的な取り組みは高く評価され、1996年には、ドイツ連邦財団から「ドイツ・エコロジー賞」を受賞するにいたりました。
Picto
1999年には、デザインに対する永年の貢献に対し、ドイツ・デザイン評議会から「デザイン・リーダーシップ連邦賞」がフリッツ・ハーネに贈られました。それを記念して、ウィルクハーン本社前の道路は「フリッツ・ハーネ通り(Fritz-Hahne-Straße)」と命名されました。
「デザイン・リーダーシップ連邦賞」を受賞するフリッツ・ハーネ
1999年には、デザインに対する永年の貢献に対し、ドイツ・デザイン評議会から「デザイン・リーダーシップ連邦賞」がフリッツ・ハーネに贈られました。それを記念して、ウィルクハーン本社前の道路は「フリッツ・ハーネ通り(Fritz-Hahne-Straße)」と命名されました。
「デザイン・リーダーシップ連邦賞」を受賞するフリッツ・ハーネ
2000年には、フリッツ・ハーネは経営の一線を退き、息子のヨハン・ハーネ(Dr. Jochen Hahne)が社長に就任します。
2000年代前半、コンピュータの浸透により大きく変化しつつあるワークスタイルに見合う製品の開発が急務となりました。2002年に発売されたSolisには、PCモニタに向かうためチェアに座る時間が長くなることを見越し、あらゆる着座姿勢を的確にサポートできるよう様々な機能が付加されました。チェアに多くの機能を付け加えるのは新しい時代に即した実験的な試みでしたが、ここでもウィルクハーンのデザイン哲学は貫かれ、一切のねじが表面に見えない、細身のすっきりと美しいフォルムはウィルクハーンの代名詞となり、この時代に出された企業広告のほとんどにSolisが登場しています。
ヨハン・ハーネ
Solis
2004年にはSolisの普及版ともいえるタスクエリア向けのNeosが登場。新時代の社会とユーザーのニーズにフィットし、かつシンプルで美しいデザインの製品を世に問うウィルクハーンの戦略は、ますます深化してゆきます。
Neos
ON
2007年に創業100周年を迎えたウィルクハーンは、更なる新機軸を打ち出します。2009年に発表されたONには、着座時でもバランスよく、ダイナミックに身体を動かせるよう、従来の人間工学に運動学のエッセンスを取り入れ独自に開発した三次元シンクロメカニズム「トリメンション」が搭載されました。全く新しいアプローチで設計され、全く新しい動きをするONはたちまち大きな話題を巻き起こし、世界的な大ヒットとなりました。
また、2012年には、新鋭デザインユニット jehs + laub (イェス・アンド・ラウブ) とコラボレートしたコレクションGraph、Asientaが発表されました。
Graph
IN
2015年頃から「全てのエリアにウィルクハーンを」をコンセプトに掲げたウィルクハーンは、従来より得意としていたエクゼクティブエリアやフロントオフィスに加え、タスクエリアやリフレッシュエリア、カフェテリアでの使用を想定したファニチャーの開発に力を注ぎます。
その皮切りにフレンドリーでスポーティなルックスが特徴のトリメンション搭載の新シリーズ、INを発表します(2015年)。
続く2017年、ハイエンド向けのカンファレンスチェアであるGraphのデザインを踏襲した、マルチパーパスチェア Occo を発表しました。
デザインを担当したのは、Graph、Asientaに続きウィルクハーンと3作目のコラボレーションとなる jehs + laub でした。
Occo
長い伝統と堅実なクラフトマンシップに支えられ、「オリジナルは永遠である」という信念のもと、
ウィルクハーンは美しさと機能性を兼ね備えた、優れたデザインの製品を世に送り続けています。
戦時中の抵抗運動「白ばら」グループの一員で1943年にナチスにより処刑されたハンスとゾフィ・ショル兄妹を記念して設立されたショル兄妹財団が1953年、南ドイツのミュンヘンとシュツットガルトの中間にあるウルムに設立した造形大学。
プロダクト・デザイン、建築、ヴィジュアル・コミュニケーション、インフォメーションの4つの専攻学科で構成され、後に映画制作部門も加わりました。「スプーンから都市計画まで」というデッサウ・バウハウスに学んだ初代学長マックス・ビルの言葉の通り、日常生活からあらゆる社会活動におよんで使用される道具や機械、建築などの対象物、および視覚的、言語的なインフォメーション媒体までを含んでおり、特に設立初期の基礎教程は、バウハウスのカリキュラムの影響が強いものでした。
全学生150人を上限とし、学生のほぼ半数はヨーロッパ近隣諸国、アメリカ、日本、インド、南米、アフリカなど西ドイツ以外から来ており、49ヶ国におよぶ国際性が特質的でした。ウルムの思想が、建築家や工業デザイナー、写真家、映画制作者のみならず、画家や音楽家や詩人といった形で国際的な広がりをもち、今日なお、ウルムで展開された考え方やデザインのいくつかは、長く生き続けています。また、カリキュラムは多くの国でデザイン教育の基礎となっています。
そして、ウィルクハーン社とのコラボレーションがそうであったように、ローゼンタールのホテル用食器TC100やブラウン社の最初のハイ・ファイシステム、コダックのスライドプロジェクター・カローセル、ドイツ・ルフトハンザ航空のコーポレート・アイデンティティといった画期的で優れたデザインを多くの企業との間に生み出し、デザインを単なる造形や理論ではなく、科学やテクノロジーとの密接な関係をもって、生産過程の中で実践していった点で、戦後のインダストリアルデザインおよび、コミュニケーションデザインのモデルを確立したパイオニア的存在です。
ウィリアム・モリスを中心としたイギリスの美術工芸運動(Arts and Crafts Movement)に影響を受け、1897年にドレスデンで創立された『手工芸のための共同工房(Vereinigten Werkstatten fur Kunst imHandwerk)』は、ヘルマン・オープリスト(1863-1927)、アウグスト・エンデル(1871-1925)、ペーター・ベーレンス(1868-1940)、リヒャルト・リーマーシュミート(1868-1957)らが参加していた。この工芸運動もまた、ベルリン、ワイマール、ダルムシュタットへ波及してゆきます。
ドイツ工作協会は、この組織を起源として、マイスターの組合であるギルドで構成され、産業革命が生み出した大量の粗悪品を憂い、伝統的なマイスターへの回帰を訴えつつ、製品の品質向上により、市民生活に貢献することを目的としていました。
ドイツ工作協会の頭文字をとってDeWeというブランドを作り、DeWeショップを展開し、商業的にも成功していました。第2次世界大戦で活動を一時中断しましたが、戦後、東ドイツの暗い先行きを憂慮した幹部の一部が西ドイツ側へ移り、ミュンヘンで活動を再開し、DeWeコレクションを復活させました。
1919年、ドイツ・ワイマールにてワイマール芸術学校とワイマール工芸学校を統一する形で開校されました。初代学長は、ペーター・ベーレンスの事務所で助手として働き、1911年ドイツ工作連盟のメンバーとなっていた建築家ウァルターヴァルター・グロピウスでした。
「全ての造形活動の最終目標は建築である」という彼の言葉が示すように、建築の名のもとに芸術と手工芸の統合を図った、近代デザインの実験工房であり、デザイン集団であり、またひとつの芸術運動としても語られる学校。
教授陣としては、画家のワシリー・カンディンスキーやパウル・クレー、ヨハネス・イッテンやモホリ=ナギ、陶芸家のゲアハルト・マルクス等がいました。
財政難によりワイマール・バウハウスは閉校となり、1925年にデッサウ市立バウハウスとして再開するも、1932年にはナチスの弾圧により廃校となります。学長となっていた、ミース・ファン・デル・ローエによって、ベルリンに移り私立バウハウスとして再スタートを切りますが、やはりナチス親衛隊によって建物を封鎖されてしまい、バウハウスは閉鎖されます。
1919年から1933年のわずか14年間という短い歴史でありながら、特にグラフィック・デザインおよび家具デザインの分野にその成果が認められます。後にその理念はシカゴの「ニュー・バウハウス」における運動とドイツのウルム造形大学におけるデザイン運動へと継承されていきます。